5月22日 水曜日
5月17日 金曜日
関ヶ原古戦場散策は本日で最終回。

徳川家康の陣跡です。

関ヶ原の戦いって、結果的には全国統一がなされた豊臣家を裏切って徳川政権を樹立する為の足がかりとなった戦いですので義戦ではなく「クーデターの成功例」なんですよね。
本来であれば石田三成が正義、徳川家康が悪、ですね。しかし歴史とは勝者の歴史。
徳川家は豊臣家や石田三成のことを悪者にしたて、記録を抹消して来ました。
さらに戦後家康が採用した政策の多くは豊臣家のブレーンであった石田三成が考えたものらしいです。やっつけといてパクッた。なんてひどい奴なんだ・・・
そんな家康は戦国時代に「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)の旗を掲げ戦に挑んでいました。
これは「煩悩に汚れた現世を離れ、極楽浄土に往生する」という意味だそうです。
家康がこの言葉をどのように解釈して用いていたかはわかりませんが、大名が私利私欲のために争い、町が焼かれ人々が戦争に駆りだされる世の中を終わらせた、という意味では厭離穢土欣求浄土を成し遂げたと言えるでしょう。
戦乱の時代に終止符を打ち、300年ものあいだ大平の世の中を統治した江戸幕府を作ったんですよ。これは凄いことです。
大政奉還からまだ150年も経ってないし今我々が暮らしている合議制の世の中の方がまだ全然短いんですもんね~。
と、いうわけでわたしの関ヶ原の戦いのまとめ
石田三成は亡き主君の遺言を守るため勝ち目の無い戦いに挑み、最後まで望みを捨てず無念の死を遂げていった。
徳川家康は戦乱の世の中を収束させ戦争が起こらない統治機構を作った。
というわけでどちらもカッコイイのです。
我々が安全に暮らしている世の中を作ったのはこの人たちです。
我々を生かす為に死んでいった歴史上の偉人達に合掌(-人-)
ps
いろいろ書いてきましたが、史実と違うことなどあるかもしれませんので内容は保証しませんw訂正点の指摘なんかありがたいです。あくまでも素人の書いていることなので何卒ご容赦ください。
おしまい

徳川家康の陣跡です。

関ヶ原の戦いって、結果的には全国統一がなされた豊臣家を裏切って徳川政権を樹立する為の足がかりとなった戦いですので義戦ではなく「クーデターの成功例」なんですよね。
本来であれば石田三成が正義、徳川家康が悪、ですね。しかし歴史とは勝者の歴史。
徳川家は豊臣家や石田三成のことを悪者にしたて、記録を抹消して来ました。
さらに戦後家康が採用した政策の多くは豊臣家のブレーンであった石田三成が考えたものらしいです。やっつけといてパクッた。なんてひどい奴なんだ・・・
そんな家康は戦国時代に「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)の旗を掲げ戦に挑んでいました。
これは「煩悩に汚れた現世を離れ、極楽浄土に往生する」という意味だそうです。
家康がこの言葉をどのように解釈して用いていたかはわかりませんが、大名が私利私欲のために争い、町が焼かれ人々が戦争に駆りだされる世の中を終わらせた、という意味では厭離穢土欣求浄土を成し遂げたと言えるでしょう。
戦乱の時代に終止符を打ち、300年ものあいだ大平の世の中を統治した江戸幕府を作ったんですよ。これは凄いことです。
大政奉還からまだ150年も経ってないし今我々が暮らしている合議制の世の中の方がまだ全然短いんですもんね~。
と、いうわけでわたしの関ヶ原の戦いのまとめ
石田三成は亡き主君の遺言を守るため勝ち目の無い戦いに挑み、最後まで望みを捨てず無念の死を遂げていった。
徳川家康は戦乱の世の中を収束させ戦争が起こらない統治機構を作った。
というわけでどちらもカッコイイのです。
我々が安全に暮らしている世の中を作ったのはこの人たちです。
我々を生かす為に死んでいった歴史上の偉人達に合掌(-人-)
ps
いろいろ書いてきましたが、史実と違うことなどあるかもしれませんので内容は保証しませんw訂正点の指摘なんかありがたいです。あくまでも素人の書いていることなので何卒ご容赦ください。
おしまい
5月15日 水曜日
昨日まで関ヶ原の戦いの流れをざざっと書き連ねてきました。
もっと書きたいことはたくさんあるんですけど終わりませんww
旅行に行ってから1ヶ月も経つのに2日目も書き終わりません(T-T)
いちいち写真の解説入れてると今年が終わるw
のでせっかく撮った写真を載せて簡単に説明して行きます
平塚為広の陣跡。

大谷吉継の与力です。吉継の代わりに采配を振るったりもしたそうです。
脇坂安治陣跡。

淡路水軍。シズガタケの7本槍の一人。小早川に便乗して裏切りました。このー!
脇坂陣のすぐ裏の山菜は危険らしいです

この近くに松尾山の入り口があるらしいのですが発見できなかった(後日調べたらわかったので、次回は登りたい)ので今回は残念でしたがスルー
福島正則の陣跡

この戦いで活躍し50万石が与えられます(戦前の2.5倍!!)
でも家康に危険視され言いがかりつけられてすぐ改易&飼い殺し。。
藤堂高虎、京極高知陣跡

大谷隊と戦いました。
ここがヤバカッタ!!首塚!!

夜は絶対来たくない

異様なオーラ。手を合わせました。
本田”平八郎”忠勝陣跡

「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭と本田平八」といわれた猛将です。
田中吉政陣跡

山中に逃れた三成を捕縛しました。
井伊直政陣跡

関ヶ原の戦いの火蓋を切ったのはこのひと。
とりあえず今日はこんなもんにしますw
つづく
もっと書きたいことはたくさんあるんですけど終わりませんww
旅行に行ってから1ヶ月も経つのに2日目も書き終わりません(T-T)
いちいち写真の解説入れてると今年が終わるw
のでせっかく撮った写真を載せて簡単に説明して行きます
平塚為広の陣跡。

大谷吉継の与力です。吉継の代わりに采配を振るったりもしたそうです。
脇坂安治陣跡。

淡路水軍。シズガタケの7本槍の一人。小早川に便乗して裏切りました。このー!
脇坂陣のすぐ裏の山菜は危険らしいです

この近くに松尾山の入り口があるらしいのですが発見できなかった(後日調べたらわかったので、次回は登りたい)ので今回は残念でしたがスルー
福島正則の陣跡

この戦いで活躍し50万石が与えられます(戦前の2.5倍!!)
でも家康に危険視され言いがかりつけられてすぐ改易&飼い殺し。。
藤堂高虎、京極高知陣跡

大谷隊と戦いました。
ここがヤバカッタ!!首塚!!

夜は絶対来たくない

異様なオーラ。手を合わせました。
本田”平八郎”忠勝陣跡

「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭と本田平八」といわれた猛将です。
田中吉政陣跡

山中に逃れた三成を捕縛しました。
井伊直政陣跡

関ヶ原の戦いの火蓋を切ったのはこのひと。
とりあえず今日はこんなもんにしますw
つづく
5月14日 火曜日
関ヶ原の続きです。
石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍の戦い。
午前中に開戦し戦いが拮抗する中お昼を過ぎた頃、ついに徳川家康30000人の本隊が前進してきました。
家康本隊の抑えであったはずの毛利秀元ら28000の連合軍は動きません。
ピンチが迫る西軍・・三成は松尾山に布陣した小早川秀秋15000の軍に期待しました。
なぜ小早川は動かない!
そのころ家康も同じく焦っていらだっていました。西軍から寝返り家康側につくことを約束させた小早川秀秋15000の軍が動かなかったからです。
小早川秀秋、19歳。この優柔不断な若者に戦いの行方はゆだねられてしまいました。
この戦いで、小早川が裏切ることを三成に忠告していた武将がいました。
敦賀城主大谷吉継です。

こちらが大谷吉継の陣跡です。
吉継は家康の上杉討伐に従うべく城を出ました。
石田三成は一番最初に旧知の親友である大谷吉継に徳川家康と戦う旨を打ち明けました。
吉継は勝ち目がないと三成を説得するも頑として受け入れない三成に愛想を尽かし一度は三成のもとを去りました。
しかし吉継は、らい病に冒されていた吉継を不気味がることなく友情を示し続けていた三成の気持ちに応えるべく兵とともに三成のもとへ戻り、勝ち目の無い戦と思いつつも三成に命を預けることにしました。
吉継は早い段階で小早川秀秋が裏切ると信じていました。
これを三成に忠告するも三成は「金吾(小早川秀秋の通称)がどうして豊臣家を裏切れようか!」
一度は豊臣秀吉の養子であった秀秋がよもや裏切るはずはない、と信じていました。
さらに西軍に味方すれば関白の位と播磨一円、近江のうち10万石、さらに黄金300枚を与えると約束していたのです。
しかし一方家康も、秀秋に対し恐怖と甘い言葉でプレッシャーをかけていたのです。
両軍拮抗する中徳川家康の大部隊が前進してきます。
小早川はまだ迷っています。
ここで家康は賭けに出ました。小早川隊に向け二十丁の鉄砲を打ち込みました
(実際、家康が居た場所から松尾山までを見ましたが鉄砲は届かないです。威嚇ですね。)
そこでビビッタ19歳の秀秋は松尾山のふもとに陣取る大谷吉継軍へ突撃しました!
大谷吉継以下、与力の戸田重政、平塚為広、大谷吉勝、木下頼継 計5000
vs
藤堂髙虎 2490
京極高知 3000
ここでも激戦が繰り広げられていました。
そこへ裏切った小早川秀秋の15000がなだれ込みます。
裏切りを予測していた吉継は600の対小早川精鋭部隊を用意していました。これで小早川隊を迎え撃ちます。
しかし、小早川の裏切りで東軍有利と見た赤座、小川、朽木、脇坂計4200の軍がこれに乗じて次々に裏切りました。
これにより大谷隊は壊滅してしまいます。

こちらが大谷吉継の墓です。
友情のために戦い死んでいった男だけあってやはりファンが多いのか献花が絶えないそうです。
しかし裏切りによる無念の死を遂げた吉継のお墓だと見るだけあってか、杉の深い山の中にあって、ここだけなんか空気が違いました。昼間なのに薄暗くちょっと怖かったですよ。
(気のせいかもしれないけど写真のシャッターがなかなか押せなかったし)

さて、小早川の裏切り、大谷隊の壊滅。勢いに乗る裏切り各隊に東軍が乗じて、西軍部隊に殺到します。
続いて小西隊が壊滅、さらに宇喜多隊も壊滅。
石田三成の部隊も壊滅しました。
三成は僅かな家臣とともに伊吹山へ逃れてゆきました・・・
つづく
石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍の戦い。
午前中に開戦し戦いが拮抗する中お昼を過ぎた頃、ついに徳川家康30000人の本隊が前進してきました。
家康本隊の抑えであったはずの毛利秀元ら28000の連合軍は動きません。
ピンチが迫る西軍・・三成は松尾山に布陣した小早川秀秋15000の軍に期待しました。
なぜ小早川は動かない!
そのころ家康も同じく焦っていらだっていました。西軍から寝返り家康側につくことを約束させた小早川秀秋15000の軍が動かなかったからです。
小早川秀秋、19歳。この優柔不断な若者に戦いの行方はゆだねられてしまいました。
この戦いで、小早川が裏切ることを三成に忠告していた武将がいました。
敦賀城主大谷吉継です。

こちらが大谷吉継の陣跡です。
吉継は家康の上杉討伐に従うべく城を出ました。
石田三成は一番最初に旧知の親友である大谷吉継に徳川家康と戦う旨を打ち明けました。
吉継は勝ち目がないと三成を説得するも頑として受け入れない三成に愛想を尽かし一度は三成のもとを去りました。
しかし吉継は、らい病に冒されていた吉継を不気味がることなく友情を示し続けていた三成の気持ちに応えるべく兵とともに三成のもとへ戻り、勝ち目の無い戦と思いつつも三成に命を預けることにしました。
吉継は早い段階で小早川秀秋が裏切ると信じていました。
これを三成に忠告するも三成は「金吾(小早川秀秋の通称)がどうして豊臣家を裏切れようか!」
一度は豊臣秀吉の養子であった秀秋がよもや裏切るはずはない、と信じていました。
さらに西軍に味方すれば関白の位と播磨一円、近江のうち10万石、さらに黄金300枚を与えると約束していたのです。
しかし一方家康も、秀秋に対し恐怖と甘い言葉でプレッシャーをかけていたのです。
両軍拮抗する中徳川家康の大部隊が前進してきます。
小早川はまだ迷っています。
ここで家康は賭けに出ました。小早川隊に向け二十丁の鉄砲を打ち込みました
(実際、家康が居た場所から松尾山までを見ましたが鉄砲は届かないです。威嚇ですね。)
そこでビビッタ19歳の秀秋は松尾山のふもとに陣取る大谷吉継軍へ突撃しました!
大谷吉継以下、与力の戸田重政、平塚為広、大谷吉勝、木下頼継 計5000
vs
藤堂髙虎 2490
京極高知 3000
ここでも激戦が繰り広げられていました。
そこへ裏切った小早川秀秋の15000がなだれ込みます。
裏切りを予測していた吉継は600の対小早川精鋭部隊を用意していました。これで小早川隊を迎え撃ちます。
しかし、小早川の裏切りで東軍有利と見た赤座、小川、朽木、脇坂計4200の軍がこれに乗じて次々に裏切りました。
これにより大谷隊は壊滅してしまいます。

こちらが大谷吉継の墓です。
友情のために戦い死んでいった男だけあってやはりファンが多いのか献花が絶えないそうです。
しかし裏切りによる無念の死を遂げた吉継のお墓だと見るだけあってか、杉の深い山の中にあって、ここだけなんか空気が違いました。昼間なのに薄暗くちょっと怖かったですよ。
(気のせいかもしれないけど写真のシャッターがなかなか押せなかったし)

さて、小早川の裏切り、大谷隊の壊滅。勢いに乗る裏切り各隊に東軍が乗じて、西軍部隊に殺到します。
続いて小西隊が壊滅、さらに宇喜多隊も壊滅。
石田三成の部隊も壊滅しました。
三成は僅かな家臣とともに伊吹山へ逃れてゆきました・・・
つづく
5月10日 金曜日
さて、関ヶ原の続きの前にお知らせが。
携帯版ホームページがあった時期に、「ナガイ平⑧郎の日記」がありましたが、携帯版ホームページ閉鎖に伴い(平⑧郎氏のネタ切れによりとの説もありw)閉鎖していました。
こちらがまた復活しましたのでお知らせします。
マスターズピットホームページのトップページにもリンク貼っております。
皆さん是非毎日w見てくださいね!
↓

----------------------------
関ヶ原シリーズつづきです。
西軍の攻勢に業を煮やした徳川家康は、30000の軍を率いて関ヶ原中ほどに進み出ます。
これは家康にとって自殺行為です。
「鶴翼の陣」(鶴が翼を広げたようにV字に相手を挟み込むような形に布陣する)の形態をとる西軍の懐に飛び込む形です。
尚且つ前進した家康本隊の後方南宮山には毛利秀元を中心に計28000の軍が控えています。
これとないチャンスに石田三成は南宮山の毛利軍にむけ出撃を要請する狼煙を上げます。
しかし毛利は動きません。
毛利秀元はそれなりに戦う気はあったようです。しかし、家臣の吉川広家が戦前に西軍の不利を予測し、徳川家康と交渉を進めていたのです。
吉川:「毛利は動きません。西軍に味方すると見せかけ何もしません。なので毛利家の所領など一切を安堵すると約束してください」
このような裏約束がすでになされていたのです。
南宮山のふもとに布陣する先鋒の吉川が動かなくては毛利、長宗我部、長束、安国寺など計28000の軍が動けません。
三成から見ればこんなチャンスはありません。「なぜ毛利は動かん!!」
狼煙を上げても動かない南宮山部隊。三成は伝令の兵士を送ります。
伝令の兵は大急ぎで南宮山まで馬を走らせました。
しかし、吉川広家部隊は
ランチを食ってました
吉川:「だ・・・だってお昼じゃん。これ食べてから。ね。」
関ヶ原最前線の激闘をよそに、昼飯を言い訳に軍を動かさなかった吉川。
では戦後、どうなったか。
吉川:「へへっどうです内府(徳川家康の通称)殿!約束どおり全軍動かさず、東軍の勝利に貢献しましたよ!約束どおり毛利家の所領は安堵してくれますよね♪」
家康:「はっはっは」
吉川:「はっはっは」
家康:「はっはっは」
吉川:「はっは・・・内府殿?」
家康:「はっはっは」
吉川:「・・・な・・・内府どの・・・」
家康:「あまったれんじゃねーよ西軍につきやがって 命は助けてやるが領地は没収ートじゃ」
吉川:「ひいいいいいいい!!!!!」
というわけで毛利120万石は山口のすみっこに追いやられ37万石に大大大減俸されてしまったのです。
私の考えですが、徳川家康の思考にはある一定のパターンがあるような気がします。
敵であっても主君に対し忠実であればあるほど高い評価をし、有能であれど敵国から離反して来たような人材は冷遇します。
吉川広家による毛利家存続の為の策が、東軍を勝利に導きこそしましたが、このような策を家康は嫌います。
負けるとわかっていても主君のために戦い、死んでいった三成のような男を実は心のそこでリスペクトしており、このようなエピソードもあります。
敗走した西軍の宇喜多秀家は逃げ続け、島津家に匿われました。
宇喜多秀家の家臣、進藤三左衛門は家康に「宇喜多秀家は自害しました」といい続けました。
しかしあるとき宇喜多秀家の生存が徳川家にばれて、秀家は島流しになります。
家康は進藤三左衛門に対し「お前の偽りではないか」と問いただします。
進藤は「もっともでございます。この首を刎ねてください」といいますが家康はこの進藤の忠義に感心し、逆に千石の禄を与えて家臣としました。
このようなエピソードがちょいちょいある家康は、ただの古だぬきではなくやはり武士だったんですね。
話を戻しますが関ヶ原は大変です。
両軍戦いが拮抗している中に徳川家康本隊が押し出してきて、西軍の毛利は動きません。
三成らはヘトヘトです。
しかしまだ希望の光があった。
松尾山に控える小早川秀秋15000の大部隊がいます。
彼らが下山し、戦いに参戦すれば勝機はあります。
三成はこのときまだそんな風に思っていました・・・
つづく
携帯版ホームページがあった時期に、「ナガイ平⑧郎の日記」がありましたが、携帯版ホームページ閉鎖に伴い(平⑧郎氏のネタ切れによりとの説もありw)閉鎖していました。
こちらがまた復活しましたのでお知らせします。
マスターズピットホームページのトップページにもリンク貼っております。
皆さん是非毎日w見てくださいね!
↓

----------------------------
関ヶ原シリーズつづきです。
西軍の攻勢に業を煮やした徳川家康は、30000の軍を率いて関ヶ原中ほどに進み出ます。
これは家康にとって自殺行為です。
「鶴翼の陣」(鶴が翼を広げたようにV字に相手を挟み込むような形に布陣する)の形態をとる西軍の懐に飛び込む形です。
尚且つ前進した家康本隊の後方南宮山には毛利秀元を中心に計28000の軍が控えています。
これとないチャンスに石田三成は南宮山の毛利軍にむけ出撃を要請する狼煙を上げます。
しかし毛利は動きません。
毛利秀元はそれなりに戦う気はあったようです。しかし、家臣の吉川広家が戦前に西軍の不利を予測し、徳川家康と交渉を進めていたのです。
吉川:「毛利は動きません。西軍に味方すると見せかけ何もしません。なので毛利家の所領など一切を安堵すると約束してください」
このような裏約束がすでになされていたのです。
南宮山のふもとに布陣する先鋒の吉川が動かなくては毛利、長宗我部、長束、安国寺など計28000の軍が動けません。
三成から見ればこんなチャンスはありません。「なぜ毛利は動かん!!」
狼煙を上げても動かない南宮山部隊。三成は伝令の兵士を送ります。
伝令の兵は大急ぎで南宮山まで馬を走らせました。
しかし、吉川広家部隊は
ランチを食ってました
吉川:「だ・・・だってお昼じゃん。これ食べてから。ね。」
関ヶ原最前線の激闘をよそに、昼飯を言い訳に軍を動かさなかった吉川。
では戦後、どうなったか。
吉川:「へへっどうです内府(徳川家康の通称)殿!約束どおり全軍動かさず、東軍の勝利に貢献しましたよ!約束どおり毛利家の所領は安堵してくれますよね♪」
家康:「はっはっは」
吉川:「はっはっは」
家康:「はっはっは」
吉川:「はっは・・・内府殿?」
家康:「はっはっは」
吉川:「・・・な・・・内府どの・・・」
家康:「あまったれんじゃねーよ西軍につきやがって 命は助けてやるが領地は没収ートじゃ」
吉川:「ひいいいいいいい!!!!!」
というわけで毛利120万石は山口のすみっこに追いやられ37万石に大大大減俸されてしまったのです。
私の考えですが、徳川家康の思考にはある一定のパターンがあるような気がします。
敵であっても主君に対し忠実であればあるほど高い評価をし、有能であれど敵国から離反して来たような人材は冷遇します。
吉川広家による毛利家存続の為の策が、東軍を勝利に導きこそしましたが、このような策を家康は嫌います。
負けるとわかっていても主君のために戦い、死んでいった三成のような男を実は心のそこでリスペクトしており、このようなエピソードもあります。
敗走した西軍の宇喜多秀家は逃げ続け、島津家に匿われました。
宇喜多秀家の家臣、進藤三左衛門は家康に「宇喜多秀家は自害しました」といい続けました。
しかしあるとき宇喜多秀家の生存が徳川家にばれて、秀家は島流しになります。
家康は進藤三左衛門に対し「お前の偽りではないか」と問いただします。
進藤は「もっともでございます。この首を刎ねてください」といいますが家康はこの進藤の忠義に感心し、逆に千石の禄を与えて家臣としました。
このようなエピソードがちょいちょいある家康は、ただの古だぬきではなくやはり武士だったんですね。
話を戻しますが関ヶ原は大変です。
両軍戦いが拮抗している中に徳川家康本隊が押し出してきて、西軍の毛利は動きません。
三成らはヘトヘトです。
しかしまだ希望の光があった。
松尾山に控える小早川秀秋15000の大部隊がいます。
彼らが下山し、戦いに参戦すれば勝機はあります。
三成はこのときまだそんな風に思っていました・・・
つづく